General Assembly>Resolutions>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba, United Nations>General Assembly>Resolutions, United Nations>General Assembly>Archives>Resolutions, https://web.archive.org/web/20111115115440/http://www.meiwa.co.jp/ir/calendar/pdf/20080818_8103_sai.pdf, https://web.archive.org/web/20080823162211/http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080818AT3S1800718082008.html, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41743430W9A220C1000000/, https://web.archive.org/web/20160304141105/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150421_13013.html, https://web.archive.org/web/20111107004745/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111104/t10013731431000.html, サンゼルスMBA留学日記・番外編:「今すぐ海外に行きたい」――平均月収15ドル以下。社会主義国キューバの厳しい現実, https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cu.html, WHO World health Statistics 2014>7.Health Expenditure(142Page), WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>6. 国防長官「もしソビエト軍がベルリンに攻め込んだら、ベルリンにいる米軍は対抗できない」

また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 後に、「自分はそんなこと言ってない」と言ったそうですが、ソ連にしっかりその時の記録を見せられて、ぐうの音も出なかったとか。なんというか…カストロさん、血気盛んというか、青かったんですね^^; でも核兵器はまずいでしょう、核兵器は。まあ、それだけ、アメリカが憎かったのでしょう。, 核戦争寸前までいったアメリカとソビエト連邦は、核戦争防止に共通の利益を見出しました。, そのため、両首相を結ぶホットラインを開設し、冷戦が一時的に緩和されることとなりました。これを米ソデタントと言います。, 映画や小説の中のようにハッピーエンドで終わりましたが、周りには核戦争をしたがる人々がウヨウヨいて、ちょっとボタンを掛け違えれば、まさに第三次世界大戦!, 2000年からアメリカ、北カリフォルニアのシリコンバレー在住です。家族は日本人の夫と、アメリカ生まれの娘、2匹の猫。映画と漫画、アニメが大好きです。(さらに詳しくは「運営者情報」をどうぞ!)アメリカに関するいろいろな事を、出来るだけ多くのアメリカのサイトを検証し、わかる限り正しい情報を、他とはちょっと違う+αの情報を出来たらプラスして、わかりやすく、楽しくお伝えしたいと思っています^^, キューバ危機は、1962年10月16日から28日に米ソで全面核戦争寸前の危機的状態になったこと, 原因はキューバ革命でバティスタ政権を倒したカストロ政権をアメリカが疎んだことが発端. CIA分析官「必死に探しておりますが、この地域では発見できておりません。しかし、核弾頭をミサイルに搭載するのは数時間で可能です。」, 国家安全保障会議緊急執行委員会で、マクナマラ国防長官は、キューバのミサイルが、アメリカの東半分を射程に入ることを指摘した上で、キューバ空爆が必要な場合、数時間で可能になることを言明。これにアメリカ軍のテイラー統合参謀本部議長も、偵察写真を撮影し、攻撃目標を正確に捕らえた上で、奇襲にでることを進言した。アメリカの近くにソ連のミサイルが運び込まれていたことに衝撃を受け、アメリカ政府高官は好戦的にならざるをえなかった。, キューバの空爆に際していて限定的な案や全面攻撃する案を検討した。その一方で、キューバをアメリカが攻撃した場合、ソ連が報復に出ることも検討された。, 国防長官「もしキューバの基地を攻撃すれば、数百人のソビエト市民を殺すことになる。その場合、フルシチョフは、どんな反応を示すことになるのか。その代償は高いものになることを覚悟しなければならない。」 JAPANドームと札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)のゲリラの亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。, キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。, 冷戦時代のキューバは1960年代の中ソ対立の中でソ連側についたこともあり、1966年に中国と関係がほぼ断絶した。アンゴラ内戦ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した[23]。1979年、フィデル・カストロは中国が中越戦争で同じ共産圏のベトナムを攻撃し、キューバに敵対的で南米の親米反共諸国とのコンドル作戦を主導しているチリのアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した[24]。冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した[25]。, 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州[注釈 5] と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。, キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。, 2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。, 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ[注釈 6] で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(英語版)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。, その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所および商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、ラス・トゥナス、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。, (出典: CUBAVIP. あわや核戦争、第三次世界大戦?!そんな映画や小説の中のお話のようなことが、キューバを舞台に、米ソ間で実際にあったのがキューバ危機です。メインの登場人物は、ロバート・ケネディ大統領、ニキータ・フルシチョフ首相、そしてキューバのフィデル・カストロ!

米国などで、感謝祭(11月第4木曜日)の翌日の金曜日のこと。休日とする職場が多く、商店にとってはクリスマス商戦の初日に当たる。「ブラック」は、買い物客による混雑、または黒字を連想させることから。→サイ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 No reproduction or republication without written permission. 1962年、アメリカとソビエト連邦間の軍事的緊張が高まり、一時は核戦争間近とまでいわれた状態を「キューバ危機」といいます。 1962年の10月14日、キューバにソ連の核ミサイル施設が建設されているのをアメリカ軍が発見します。

あわや核戦争、第三次世界大戦?!そんな映画や小説の中のお話のようなことが、キューバを舞台に、米ソ間で実際にあったのがキューバ危機です。, キューバ危機の原因はカストロのキューバ革命から始まった核戦争、アメリカvsソ連勃発?!キューバ危機の結果は?, どうして重要?:米ソ間でホットラインが設置されるようになり、首脳同士が電話で会談できるようになったから, 1898年の米西戦争で、キューバは独立を勝ち取りました。でも直ぐに、実質的にはアメリカの支配下に置かれることになります。, アメリカ生まれの娘は、ずっと現地校に通っています。数年前から、学校でアメリカの歴史を習うようになってきました。実は私、日本史専攻で世界史をやらなかったので、アメリカの歴史をよく知りません。これでは会話が出来ない!と、あれこれ[…], そうした中、軍事クーデタで独裁者として君臨していたのがフルヘンシオ・バティスタでした。アメリカはこの軍事政権を容認していました。, これに反発したのが、フィデル・カストロです。彼はチェ・ゲバラと共にバティスタ政権を倒しました。, 新しく首相となったカストロは、すぐにアメリカを訪問しました。キューバの砂糖産業を守るため、経済援助を申し入れるためです。, しかし当時のアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは、親米政権だったバティスタ政権を倒したカストロを信用しませんでした。そしてあろうことか、カストロ政権を倒すことを狙った作戦も展開しました。, 作戦は失敗しましたが、カストロはもちろん激怒しました。そして、アメリカがそういう態度ならソビエト連邦だ!と、ソビエト連邦に接近したのです。, お互いに核兵器を持ち、お互いにいざとなったら使うぞと脅しあっている犬猿の仲でした。, アメリカはトルコに核ミサイルを配備していて、すぐにでもソビエト連邦を攻撃できました。, でもソビエト連邦には、直接アメリカを狙えるミサイルを配置する場所がなかったのです。, そんな時、アメリカのすぐ横にあるキューバがやってきたのです。ソビエト連邦の最高指導者だったニキータ・フルシチョフは、どんなにかニンマリしたことでしょう!, おそらくカストロは初め、共産主義にはさほど興味はなかったはずです。最初にアイゼンハワー大統領が快く迎えていれば、アメリカといい関係を築くつもりでいたのでしょう。, アメリカとは1961年に国交断絶しました。そして同じ年に、キューバは社会主義国となりました。, アメリカはその後も、カストロ政権を倒すため、あの手この手の暗殺計画、攻撃を行いました。カストロは2016年に90歳で亡くなりましたが、なんと600回以上命を狙われたそうです!これはギネス記録だとか。, しかしこれだけ失敗するのはアメリカが無能なのか、キューバが有能なのか?!はたまたカストロが神に守られた人なのか??, そしてソビエト連邦は、そんなキューバをアメリカから守るという名目もあり。ミサイル基地を建設し、遂に核ミサイルをこっそりと輸送し始めたのでした。, ソビエト連邦のフルシチョフ首相は、キューバに核ミサイルを配備する計画を立てました。トルコのように、すぐにアメリカを攻撃できるようにするためです。, その核ミサイルを、空軍の偵察機が撮影した写真で見つけたアメリカは、そりゃもうビックリです。, 核兵器を一発でも使ったら、相手も使い、この世の終わりです。絶対に使いたくない、使われたくない。, フルシチョフ首相の要望は、アメリカがキューバへの侵攻を止めること。そしてトルコのミサイルを撤去することです。, しかしこの当時、首相同士が話せるホットラインはありませんでした。ケネディ大統領とフルシチョフ首相は、6時間もタイムラグのある書簡で対話を続けるしかありませんでした。, そんな時、キューバ上空を飛んでいたアメリカの偵察飛行機がソ連のミサイルで撃墜される事件が発生。これは開戦かと、一気に緊迫しました。, さらに今度はアメリカが、海上封鎖中のキューバ海域に向かうソ連の潜水艦を爆雷。一触即発の状態となりました。, フルシチョフ首相はモスクワ放送で、キューバーのミサイル撤去決定を発表しました。これは同時にアメリカのラジオでも放送されました。, アメリカの海軍・空軍参謀には、この放送を疑い、こちらから攻撃すべきだという声もありました。, しかしケネディ大統領も条件を受け入れ、キューバへの武力侵攻は今後しないことを約束し、1963年4月にはトルコのNATO軍ジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。, もちろんソ連も約束を守り、翌月にはミサイル基地とミサイルを解体し、ソ連へと持ち帰ったのです。, アメリカから攻められることがなくなり、キューバのカストロも大喜び!と思いきや、彼はこの結果に大激怒だったそうです。実はソ連と一緒にアメリカと戦う気満々で、核ミサイルを撃ってやれ!とまで言っていたのです。, なのに自分を蚊帳の外に、勝手に二国間だけで決めてしまったのだから、これは面白くないわけで。. Health systems, WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>1. 1898年のキューバをめぐるアメリカとスペインの帝国主義戦争。アメリカがキューバを実質的支配下におき、太平洋などでも領土を獲得し、帝国主義国家への転換を明 … Life expectancy and mortality , 2. それを知るには、キューバの歴史を少し知る必要があります。 1898年の米西戦争で、キューバは独立を勝ち取りました。 でも直ぐに、実質的にはアメリカの支配下に置かれることになります。 そうした中、軍事クーデタで独裁者として君臨していたのがフルヘンシオ・バティスタでした。 アメリカはこの軍事政権を容認していました。 これに反発したのが、フィデル・カストロです。 彼はチェ・ゲバラと共にバティスタ政権を倒し … キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置し、キューバ本島とその周辺の島嶼からなる社会主義共和制国家。首都はハバナ。, ラテンアメリカにある島国。ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島とジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコのユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国フロリダ州(フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。, フィリピンのルソン島ほどの面積を持つ島国で、地理的には北アメリカに含まれ、広義の中央アメリカにも含まれる。南北アメリカ大陸間、およびラテンアメリカとヨーロッパを結ぶ要路に位置している。アメリカ合衆国とは「アメリカ合衆国の裏庭」とも呼ばれるほど関わりが深かったが、キューバ革命により、南北アメリカ大陸で初めて反米・親ソ連の社会主義政権が1959年に成立。その後は「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。, 正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称Cuba(クーバ)。, 日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字は、玖瑪、玖馬、久場、古巴など。中華人民共和国においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。, 国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン[注釈 1] が由来であるとされている。, ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。, 1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。, スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。, そこへつけこむ形で、300年かけてキューバ開発は多国籍化した。ウェストファリア条約締結によりスペイン帝国は凋落、1680年のインディアス法令集成からは王室が富鉱を独占する規定がなくなり、5分の1税を払うだけで採掘が許された。1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。そしてマーチャント・バンクに開発されていく。, 19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。, また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。, その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。, 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。, 1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。, 1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。, 1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。, 「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。ユナイテッド・フルーツ、アメリカン・タバコ・カンパニー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークなどの多国籍企業が進出し、現地では鉄道会社も設立された。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。1920年代半ばには合衆国の投信マネーが電力系統へ流れてきて、ゼネラル・エレクトリック系の電力証券(Electric Bond and Share Company)とその子会社(American & Foreign Power Company Inc.)が全土の電力網を作り上げた。このころ砂糖市場は国際問題化した。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。, 不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。, 1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治[要出典]を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。[要出典]これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。そしてユーロダラー戦争が誘発された。, 1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。, メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。, 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。, バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。, これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業というあらゆる産業が対象となった。たとえば、精糖会社ではユナイテッド・フルーツが国有化されたほか、1960年7月に国有化された米系企業としては、Rothschild-Samuel-Suignan(たばこ会社)、ゼネラル・モーターズ・アクセプタンス(産業金融)、オクシデンタル生命、アメリカン・インターナショナル・グループ、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現・JPモルガン・チェース)[2] があげられる。, 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。, 1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。米ソの妥協によって核戦争は回避されたものの(キューバ危機)、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の機関化を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者であるシャドー・バンキング・システムとの対立が深まった。, 1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。, 1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。, 1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。, 冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。, 深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。なお、土地の私有化によって、ビルバオ・ビスカヤ・パナマが最初のモーゲージ貸付を行った[3]。, 2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。, アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた[注釈 2]。11月6日、アメリカ上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。, 国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた[4][5][6]。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。なお、アメリカは、表向きは経済制裁を継続していたビル・クリントン政権時代に、ハバナのアメリカ利益代表部の大改築を行っている。, 2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。, 2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。, 2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した[7]。なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている[8]。, アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。, その後、2017年に就任したドナルド・トランプ米大統領は、キューバに再び厳しい姿勢を示している。, キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵組織などもある。, 最高司令官は国家評議会議長が兼任。徴兵制度が存在し、17 - 45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力3万8,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値はすべて2007年のもの)。, 1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖、経済制裁が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、2020年現在もグアンタナモ米軍基地が存在する。, アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求めた。1962年10月にキューバミサイル危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある[13]。, 1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置も参照)。, しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダやローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した[14][15]。以後、, その後、米ドナルド・トランプ政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した[20]。, 1999年にベネズエラでウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビア、エクアドル、ニカラグアで左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。, キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。, ロシア連邦とはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機(1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。, 1990年代初めのソ連崩壊による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシア連邦の国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチがキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている[21]。, 日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である[22]。, 日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロが親日家であることもあり、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 Yahoo! うらら Nhk 現在 54, 環境省 技術系 一般職 6, Oras ふしぎな あめ 稼ぎ 13, ダンボール 銃 小学生簡単 37, メン フクロウ Gif 真似 5, アルインコ エアロバイク 異音 修理 5, 六本木ヒルズ 森タワー オフィス 賃料 4, 花王 手洗い ポスター 5, 大東建託 多田勝美 自宅 19, 給食の 時に 流れる 曲 クラシック 5, パトラッシュ 疲れたよ 顔文字 6, 死役所 幸子 ネタバレ 15巻 27, みき 漢字 一文字 7, ダイハツ 新型 Taft タフト 4, 文豪ストレイドッグス 異 能力 8, 乃木坂 二期生 人気 22, 遠慮 控える 類語 8, ブライス ドール バッグ 作り方 5, Nhkニュース 歴代 アナウンサー 30, 仮面ライダー芸人 第2弾 Dvd 5, ナカジー 嫁 ジャッカル 9, 弱虫ペダル ドラマ 事故 9, 常盤貴子 自宅 場所 18, Ikea ロゴ 色 12, 告白 セリフ集 女→男 アニメ 5, ドアミラー 自動格納 スズキ 4, " /> General Assembly>Resolutions>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba, United Nations>General Assembly>Resolutions, United Nations>General Assembly>Archives>Resolutions, https://web.archive.org/web/20111115115440/http://www.meiwa.co.jp/ir/calendar/pdf/20080818_8103_sai.pdf, https://web.archive.org/web/20080823162211/http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080818AT3S1800718082008.html, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41743430W9A220C1000000/, https://web.archive.org/web/20160304141105/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150421_13013.html, https://web.archive.org/web/20111107004745/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111104/t10013731431000.html, サンゼルスMBA留学日記・番外編:「今すぐ海外に行きたい」――平均月収15ドル以下。社会主義国キューバの厳しい現実, https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cu.html, WHO World health Statistics 2014>7.Health Expenditure(142Page), WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>6. 国防長官「もしソビエト軍がベルリンに攻め込んだら、ベルリンにいる米軍は対抗できない」

また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 後に、「自分はそんなこと言ってない」と言ったそうですが、ソ連にしっかりその時の記録を見せられて、ぐうの音も出なかったとか。なんというか…カストロさん、血気盛んというか、青かったんですね^^; でも核兵器はまずいでしょう、核兵器は。まあ、それだけ、アメリカが憎かったのでしょう。, 核戦争寸前までいったアメリカとソビエト連邦は、核戦争防止に共通の利益を見出しました。, そのため、両首相を結ぶホットラインを開設し、冷戦が一時的に緩和されることとなりました。これを米ソデタントと言います。, 映画や小説の中のようにハッピーエンドで終わりましたが、周りには核戦争をしたがる人々がウヨウヨいて、ちょっとボタンを掛け違えれば、まさに第三次世界大戦!, 2000年からアメリカ、北カリフォルニアのシリコンバレー在住です。家族は日本人の夫と、アメリカ生まれの娘、2匹の猫。映画と漫画、アニメが大好きです。(さらに詳しくは「運営者情報」をどうぞ!)アメリカに関するいろいろな事を、出来るだけ多くのアメリカのサイトを検証し、わかる限り正しい情報を、他とはちょっと違う+αの情報を出来たらプラスして、わかりやすく、楽しくお伝えしたいと思っています^^, キューバ危機は、1962年10月16日から28日に米ソで全面核戦争寸前の危機的状態になったこと, 原因はキューバ革命でバティスタ政権を倒したカストロ政権をアメリカが疎んだことが発端. CIA分析官「必死に探しておりますが、この地域では発見できておりません。しかし、核弾頭をミサイルに搭載するのは数時間で可能です。」, 国家安全保障会議緊急執行委員会で、マクナマラ国防長官は、キューバのミサイルが、アメリカの東半分を射程に入ることを指摘した上で、キューバ空爆が必要な場合、数時間で可能になることを言明。これにアメリカ軍のテイラー統合参謀本部議長も、偵察写真を撮影し、攻撃目標を正確に捕らえた上で、奇襲にでることを進言した。アメリカの近くにソ連のミサイルが運び込まれていたことに衝撃を受け、アメリカ政府高官は好戦的にならざるをえなかった。, キューバの空爆に際していて限定的な案や全面攻撃する案を検討した。その一方で、キューバをアメリカが攻撃した場合、ソ連が報復に出ることも検討された。, 国防長官「もしキューバの基地を攻撃すれば、数百人のソビエト市民を殺すことになる。その場合、フルシチョフは、どんな反応を示すことになるのか。その代償は高いものになることを覚悟しなければならない。」 JAPANドームと札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)のゲリラの亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。, キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。, 冷戦時代のキューバは1960年代の中ソ対立の中でソ連側についたこともあり、1966年に中国と関係がほぼ断絶した。アンゴラ内戦ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した[23]。1979年、フィデル・カストロは中国が中越戦争で同じ共産圏のベトナムを攻撃し、キューバに敵対的で南米の親米反共諸国とのコンドル作戦を主導しているチリのアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した[24]。冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した[25]。, 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州[注釈 5] と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。, キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。, 2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。, 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ[注釈 6] で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(英語版)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。, その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所および商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、ラス・トゥナス、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。, (出典: CUBAVIP. あわや核戦争、第三次世界大戦?!そんな映画や小説の中のお話のようなことが、キューバを舞台に、米ソ間で実際にあったのがキューバ危機です。メインの登場人物は、ロバート・ケネディ大統領、ニキータ・フルシチョフ首相、そしてキューバのフィデル・カストロ!

米国などで、感謝祭(11月第4木曜日)の翌日の金曜日のこと。休日とする職場が多く、商店にとってはクリスマス商戦の初日に当たる。「ブラック」は、買い物客による混雑、または黒字を連想させることから。→サイ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 No reproduction or republication without written permission. 1962年、アメリカとソビエト連邦間の軍事的緊張が高まり、一時は核戦争間近とまでいわれた状態を「キューバ危機」といいます。 1962年の10月14日、キューバにソ連の核ミサイル施設が建設されているのをアメリカ軍が発見します。

あわや核戦争、第三次世界大戦?!そんな映画や小説の中のお話のようなことが、キューバを舞台に、米ソ間で実際にあったのがキューバ危機です。, キューバ危機の原因はカストロのキューバ革命から始まった核戦争、アメリカvsソ連勃発?!キューバ危機の結果は?, どうして重要?:米ソ間でホットラインが設置されるようになり、首脳同士が電話で会談できるようになったから, 1898年の米西戦争で、キューバは独立を勝ち取りました。でも直ぐに、実質的にはアメリカの支配下に置かれることになります。, アメリカ生まれの娘は、ずっと現地校に通っています。数年前から、学校でアメリカの歴史を習うようになってきました。実は私、日本史専攻で世界史をやらなかったので、アメリカの歴史をよく知りません。これでは会話が出来ない!と、あれこれ[…], そうした中、軍事クーデタで独裁者として君臨していたのがフルヘンシオ・バティスタでした。アメリカはこの軍事政権を容認していました。, これに反発したのが、フィデル・カストロです。彼はチェ・ゲバラと共にバティスタ政権を倒しました。, 新しく首相となったカストロは、すぐにアメリカを訪問しました。キューバの砂糖産業を守るため、経済援助を申し入れるためです。, しかし当時のアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは、親米政権だったバティスタ政権を倒したカストロを信用しませんでした。そしてあろうことか、カストロ政権を倒すことを狙った作戦も展開しました。, 作戦は失敗しましたが、カストロはもちろん激怒しました。そして、アメリカがそういう態度ならソビエト連邦だ!と、ソビエト連邦に接近したのです。, お互いに核兵器を持ち、お互いにいざとなったら使うぞと脅しあっている犬猿の仲でした。, アメリカはトルコに核ミサイルを配備していて、すぐにでもソビエト連邦を攻撃できました。, でもソビエト連邦には、直接アメリカを狙えるミサイルを配置する場所がなかったのです。, そんな時、アメリカのすぐ横にあるキューバがやってきたのです。ソビエト連邦の最高指導者だったニキータ・フルシチョフは、どんなにかニンマリしたことでしょう!, おそらくカストロは初め、共産主義にはさほど興味はなかったはずです。最初にアイゼンハワー大統領が快く迎えていれば、アメリカといい関係を築くつもりでいたのでしょう。, アメリカとは1961年に国交断絶しました。そして同じ年に、キューバは社会主義国となりました。, アメリカはその後も、カストロ政権を倒すため、あの手この手の暗殺計画、攻撃を行いました。カストロは2016年に90歳で亡くなりましたが、なんと600回以上命を狙われたそうです!これはギネス記録だとか。, しかしこれだけ失敗するのはアメリカが無能なのか、キューバが有能なのか?!はたまたカストロが神に守られた人なのか??, そしてソビエト連邦は、そんなキューバをアメリカから守るという名目もあり。ミサイル基地を建設し、遂に核ミサイルをこっそりと輸送し始めたのでした。, ソビエト連邦のフルシチョフ首相は、キューバに核ミサイルを配備する計画を立てました。トルコのように、すぐにアメリカを攻撃できるようにするためです。, その核ミサイルを、空軍の偵察機が撮影した写真で見つけたアメリカは、そりゃもうビックリです。, 核兵器を一発でも使ったら、相手も使い、この世の終わりです。絶対に使いたくない、使われたくない。, フルシチョフ首相の要望は、アメリカがキューバへの侵攻を止めること。そしてトルコのミサイルを撤去することです。, しかしこの当時、首相同士が話せるホットラインはありませんでした。ケネディ大統領とフルシチョフ首相は、6時間もタイムラグのある書簡で対話を続けるしかありませんでした。, そんな時、キューバ上空を飛んでいたアメリカの偵察飛行機がソ連のミサイルで撃墜される事件が発生。これは開戦かと、一気に緊迫しました。, さらに今度はアメリカが、海上封鎖中のキューバ海域に向かうソ連の潜水艦を爆雷。一触即発の状態となりました。, フルシチョフ首相はモスクワ放送で、キューバーのミサイル撤去決定を発表しました。これは同時にアメリカのラジオでも放送されました。, アメリカの海軍・空軍参謀には、この放送を疑い、こちらから攻撃すべきだという声もありました。, しかしケネディ大統領も条件を受け入れ、キューバへの武力侵攻は今後しないことを約束し、1963年4月にはトルコのNATO軍ジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。, もちろんソ連も約束を守り、翌月にはミサイル基地とミサイルを解体し、ソ連へと持ち帰ったのです。, アメリカから攻められることがなくなり、キューバのカストロも大喜び!と思いきや、彼はこの結果に大激怒だったそうです。実はソ連と一緒にアメリカと戦う気満々で、核ミサイルを撃ってやれ!とまで言っていたのです。, なのに自分を蚊帳の外に、勝手に二国間だけで決めてしまったのだから、これは面白くないわけで。. Health systems, WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>1. 1898年のキューバをめぐるアメリカとスペインの帝国主義戦争。アメリカがキューバを実質的支配下におき、太平洋などでも領土を獲得し、帝国主義国家への転換を明 … Life expectancy and mortality , 2. それを知るには、キューバの歴史を少し知る必要があります。 1898年の米西戦争で、キューバは独立を勝ち取りました。 でも直ぐに、実質的にはアメリカの支配下に置かれることになります。 そうした中、軍事クーデタで独裁者として君臨していたのがフルヘンシオ・バティスタでした。 アメリカはこの軍事政権を容認していました。 これに反発したのが、フィデル・カストロです。 彼はチェ・ゲバラと共にバティスタ政権を倒し … キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置し、キューバ本島とその周辺の島嶼からなる社会主義共和制国家。首都はハバナ。, ラテンアメリカにある島国。ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島とジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコのユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国フロリダ州(フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。, フィリピンのルソン島ほどの面積を持つ島国で、地理的には北アメリカに含まれ、広義の中央アメリカにも含まれる。南北アメリカ大陸間、およびラテンアメリカとヨーロッパを結ぶ要路に位置している。アメリカ合衆国とは「アメリカ合衆国の裏庭」とも呼ばれるほど関わりが深かったが、キューバ革命により、南北アメリカ大陸で初めて反米・親ソ連の社会主義政権が1959年に成立。その後は「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。, 正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称Cuba(クーバ)。, 日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字は、玖瑪、玖馬、久場、古巴など。中華人民共和国においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。, 国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン[注釈 1] が由来であるとされている。, ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。, 1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。, スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。, そこへつけこむ形で、300年かけてキューバ開発は多国籍化した。ウェストファリア条約締結によりスペイン帝国は凋落、1680年のインディアス法令集成からは王室が富鉱を独占する規定がなくなり、5分の1税を払うだけで採掘が許された。1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。そしてマーチャント・バンクに開発されていく。, 19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。, また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。, その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。, 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。, 1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。, 1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。, 1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。, 「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。ユナイテッド・フルーツ、アメリカン・タバコ・カンパニー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークなどの多国籍企業が進出し、現地では鉄道会社も設立された。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。1920年代半ばには合衆国の投信マネーが電力系統へ流れてきて、ゼネラル・エレクトリック系の電力証券(Electric Bond and Share Company)とその子会社(American & Foreign Power Company Inc.)が全土の電力網を作り上げた。このころ砂糖市場は国際問題化した。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。, 不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。, 1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治[要出典]を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。[要出典]これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。そしてユーロダラー戦争が誘発された。, 1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。, メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。, 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。, バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。, これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業というあらゆる産業が対象となった。たとえば、精糖会社ではユナイテッド・フルーツが国有化されたほか、1960年7月に国有化された米系企業としては、Rothschild-Samuel-Suignan(たばこ会社)、ゼネラル・モーターズ・アクセプタンス(産業金融)、オクシデンタル生命、アメリカン・インターナショナル・グループ、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現・JPモルガン・チェース)[2] があげられる。, 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。, 1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。米ソの妥協によって核戦争は回避されたものの(キューバ危機)、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の機関化を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者であるシャドー・バンキング・システムとの対立が深まった。, 1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。, 1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。, 1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。, 冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。, 深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。なお、土地の私有化によって、ビルバオ・ビスカヤ・パナマが最初のモーゲージ貸付を行った[3]。, 2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。, アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた[注釈 2]。11月6日、アメリカ上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。, 国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた[4][5][6]。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。なお、アメリカは、表向きは経済制裁を継続していたビル・クリントン政権時代に、ハバナのアメリカ利益代表部の大改築を行っている。, 2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。, 2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。, 2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した[7]。なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている[8]。, アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。, その後、2017年に就任したドナルド・トランプ米大統領は、キューバに再び厳しい姿勢を示している。, キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵組織などもある。, 最高司令官は国家評議会議長が兼任。徴兵制度が存在し、17 - 45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力3万8,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値はすべて2007年のもの)。, 1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖、経済制裁が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、2020年現在もグアンタナモ米軍基地が存在する。, アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求めた。1962年10月にキューバミサイル危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある[13]。, 1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置も参照)。, しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダやローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した[14][15]。以後、, その後、米ドナルド・トランプ政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した[20]。, 1999年にベネズエラでウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビア、エクアドル、ニカラグアで左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。, キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。, ロシア連邦とはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機(1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。, 1990年代初めのソ連崩壊による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシア連邦の国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチがキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている[21]。, 日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である[22]。, 日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロが親日家であることもあり、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 Yahoo! うらら Nhk 現在 54, 環境省 技術系 一般職 6, Oras ふしぎな あめ 稼ぎ 13, ダンボール 銃 小学生簡単 37, メン フクロウ Gif 真似 5, アルインコ エアロバイク 異音 修理 5, 六本木ヒルズ 森タワー オフィス 賃料 4, 花王 手洗い ポスター 5, 大東建託 多田勝美 自宅 19, 給食の 時に 流れる 曲 クラシック 5, パトラッシュ 疲れたよ 顔文字 6, 死役所 幸子 ネタバレ 15巻 27, みき 漢字 一文字 7, ダイハツ 新型 Taft タフト 4, 文豪ストレイドッグス 異 能力 8, 乃木坂 二期生 人気 22, 遠慮 控える 類語 8, ブライス ドール バッグ 作り方 5, Nhkニュース 歴代 アナウンサー 30, 仮面ライダー芸人 第2弾 Dvd 5, ナカジー 嫁 ジャッカル 9, 弱虫ペダル ドラマ 事故 9, 常盤貴子 自宅 場所 18, Ikea ロゴ 色 12, 告白 セリフ集 女→男 アニメ 5, ドアミラー 自動格納 スズキ 4, " />

アメリカ キューバ 戦争

米西戦争/アメリカ=スペイン戦争. 米西戦争② キューバとフィリピンを植民地にする (そうだったのか!アメリカ から抜粋) アメリカが海外で行った最初の戦争が、この戦争です。 アメリカにとって手近なのは、カリブ海の島々でした。

第二次キューバ独立戦争は、1895年から1898年にかけてキューバにて行われた独立戦争である。単にキューバ独立戦争(英語:Cuban War of Independence, スペイン語:Guerra de Independencia cubana)と呼ばれる事も多い。1895年2月24日にスペイン帝国からの独立のための最後の戦いは開始された。1898年4月25日にアメリカ合衆国が介入して米西戦争に発展。同年8月12日にスペインは降伏文書に調印し、交戦状態は終結に向かった。12月10日にパリ条約が締結され、キューバの独立が承認された。, 第一次キューバ独立戦争が終結してから17年でキューバの社会は根本的に変化していった。1886年10月に奴隷制度が廃止され、元奴隷は農民や都市労働者階級の仲間入りをする事になった。多くの裕福なキューバ人が財産を失い、都市の中産階級の仲間入りをした。砂糖のプランテーションを主に、アメリカ合衆国の金融資本が大量に流入し始めていった。1895年にはその投資額は5000万ドルに達していた。キューバは政治的にはスペインの植民地として残っていたものの、経済的にはアメリカに依存するようになっていた。, 1892年4月10日にホセ・マルティはキューバ革命党を創立し、独立へ向けて本格的な活動を開始した[1]。, 1895年2月24日にスペインの支配に対して反発する蜂起が各地で発生、第二次独立戦争が開始された。マルティは3月25日に競合する革命軍指揮者であるマクシモ・ゴメスの賛同も得てドミニカ共和国でモンテ・クリスティ宣言を発表、平等な世界を実現するために歴史的任務として戦闘状態に入る事を表明した[1]。, 4月1日にキューバへ向けて出発したマルティとゴメスら6人は11日にキューバ東部の海岸に上陸を果たし、進軍を開始した。マルティは5月19日にスペイン軍の待ち伏せに遭って落馬してしまい、亡くなってしまう[1]。, その後にゴメスとアントニオ・マセオは双方に分かれて作戦を展開した。マセオは1895年12月7日に戦死して西部戦線が崩壊していく中、ゴメス率いる部隊はスペイン軍に対する攻撃を継続[2]。以降は膠着状態に突入していく。, 2年以上が経過し、スペインの植民地政府には最早戦争に供給していくための資金は残っていなかった。1898年2月15日にアメリカ海軍の軍艦、メイン号の爆発事件が発生し、スペイン海軍による仕業だと報道された。植民地政府は自治権を付与し、反乱軍に歩み寄りの姿勢を見せた。スペイン軍司令官のラモン・ブランコは反乱軍のリーダーであるゴメスに、アメリカに対する共闘を提案したが、ゴメスはこれをきっぱりと拒否した[2]。, 1898年4月11日、アメリカのウィリアム・マッキンリー大統領は連邦議会に対し、キューバへのアメリカ軍の派遣の是非を問う教書を提出。19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同決議案を圧倒的多数で採択し、大統領に国家緊急権を付与する事を承認した。4月25日に連邦議会は正式に宣戦布告を発令した。, 7月3日のサンティアーゴ・デ・クーバ海戦の敗戦と同月25日のプエルトリコへのアメリカ軍の上陸によって戦争を継続する力を喪失したスペインは12月10日にアメリカとパリ条約を締結し、キューバにおける主権を放棄した。, キューバは1902年5月20日に400年近くに及んだスペインによる植民地支配から解放され、独立を達成した。しかし、独立は形式的なものにとどまり、以後はアメリカの保護国化が進行する事になる。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=第二次キューバ独立戦争&oldid=64914948. スペイン・アメリカ・キューバ・フィリピン戦争 を通してアメリカ合衆国に経済面での依存度を強めていた。また,合 衆国側も砂糖の海上輸送 やその精製 また自国の工業製品の市場としてばかりでなく,キ ューバの砂糖,タ バコ,コ ー キューバ 広がる自営業/進む規制緩和 労働者の1割に/米国、さらなる経済封鎖 外資誘致には壁」『, Gleijeses quoting: Matthews, Herbert in: Forward with Fidel Castro, Anywhere, New York Times, 4 March 1976, p. 31, Fauriol, G. A., & Loser, E. "Cuba : the international dimension". Routledge, 1990, p. 211 ISBN:9780887383243, キューバ/対米関係再び悪化でもしぶとく成長/欧中の投資・観光底堅く『日経産業新聞』2018年1月19日(グローバル面), United Nations>General Assembly>Resolutions>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba, United Nations>General Assembly>Resolutions, United Nations>General Assembly>Archives>Resolutions, https://web.archive.org/web/20111115115440/http://www.meiwa.co.jp/ir/calendar/pdf/20080818_8103_sai.pdf, https://web.archive.org/web/20080823162211/http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080818AT3S1800718082008.html, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41743430W9A220C1000000/, https://web.archive.org/web/20160304141105/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150421_13013.html, https://web.archive.org/web/20111107004745/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111104/t10013731431000.html, サンゼルスMBA留学日記・番外編:「今すぐ海外に行きたい」――平均月収15ドル以下。社会主義国キューバの厳しい現実, https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cu.html, WHO World health Statistics 2014>7.Health Expenditure(142Page), WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>6. 国防長官「もしソビエト軍がベルリンに攻め込んだら、ベルリンにいる米軍は対抗できない」

また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 後に、「自分はそんなこと言ってない」と言ったそうですが、ソ連にしっかりその時の記録を見せられて、ぐうの音も出なかったとか。なんというか…カストロさん、血気盛んというか、青かったんですね^^; でも核兵器はまずいでしょう、核兵器は。まあ、それだけ、アメリカが憎かったのでしょう。, 核戦争寸前までいったアメリカとソビエト連邦は、核戦争防止に共通の利益を見出しました。, そのため、両首相を結ぶホットラインを開設し、冷戦が一時的に緩和されることとなりました。これを米ソデタントと言います。, 映画や小説の中のようにハッピーエンドで終わりましたが、周りには核戦争をしたがる人々がウヨウヨいて、ちょっとボタンを掛け違えれば、まさに第三次世界大戦!, 2000年からアメリカ、北カリフォルニアのシリコンバレー在住です。家族は日本人の夫と、アメリカ生まれの娘、2匹の猫。映画と漫画、アニメが大好きです。(さらに詳しくは「運営者情報」をどうぞ!)アメリカに関するいろいろな事を、出来るだけ多くのアメリカのサイトを検証し、わかる限り正しい情報を、他とはちょっと違う+αの情報を出来たらプラスして、わかりやすく、楽しくお伝えしたいと思っています^^, キューバ危機は、1962年10月16日から28日に米ソで全面核戦争寸前の危機的状態になったこと, 原因はキューバ革命でバティスタ政権を倒したカストロ政権をアメリカが疎んだことが発端. CIA分析官「必死に探しておりますが、この地域では発見できておりません。しかし、核弾頭をミサイルに搭載するのは数時間で可能です。」, 国家安全保障会議緊急執行委員会で、マクナマラ国防長官は、キューバのミサイルが、アメリカの東半分を射程に入ることを指摘した上で、キューバ空爆が必要な場合、数時間で可能になることを言明。これにアメリカ軍のテイラー統合参謀本部議長も、偵察写真を撮影し、攻撃目標を正確に捕らえた上で、奇襲にでることを進言した。アメリカの近くにソ連のミサイルが運び込まれていたことに衝撃を受け、アメリカ政府高官は好戦的にならざるをえなかった。, キューバの空爆に際していて限定的な案や全面攻撃する案を検討した。その一方で、キューバをアメリカが攻撃した場合、ソ連が報復に出ることも検討された。, 国防長官「もしキューバの基地を攻撃すれば、数百人のソビエト市民を殺すことになる。その場合、フルシチョフは、どんな反応を示すことになるのか。その代償は高いものになることを覚悟しなければならない。」 JAPANドームと札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)のゲリラの亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。, キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。, 冷戦時代のキューバは1960年代の中ソ対立の中でソ連側についたこともあり、1966年に中国と関係がほぼ断絶した。アンゴラ内戦ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した[23]。1979年、フィデル・カストロは中国が中越戦争で同じ共産圏のベトナムを攻撃し、キューバに敵対的で南米の親米反共諸国とのコンドル作戦を主導しているチリのアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した[24]。冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した[25]。, 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州[注釈 5] と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。, キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。, 2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。, 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ[注釈 6] で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(英語版)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。, その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所および商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、ラス・トゥナス、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。, (出典: CUBAVIP. あわや核戦争、第三次世界大戦?!そんな映画や小説の中のお話のようなことが、キューバを舞台に、米ソ間で実際にあったのがキューバ危機です。メインの登場人物は、ロバート・ケネディ大統領、ニキータ・フルシチョフ首相、そしてキューバのフィデル・カストロ!

米国などで、感謝祭(11月第4木曜日)の翌日の金曜日のこと。休日とする職場が多く、商店にとってはクリスマス商戦の初日に当たる。「ブラック」は、買い物客による混雑、または黒字を連想させることから。→サイ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 No reproduction or republication without written permission. 1962年、アメリカとソビエト連邦間の軍事的緊張が高まり、一時は核戦争間近とまでいわれた状態を「キューバ危機」といいます。 1962年の10月14日、キューバにソ連の核ミサイル施設が建設されているのをアメリカ軍が発見します。

あわや核戦争、第三次世界大戦?!そんな映画や小説の中のお話のようなことが、キューバを舞台に、米ソ間で実際にあったのがキューバ危機です。, キューバ危機の原因はカストロのキューバ革命から始まった核戦争、アメリカvsソ連勃発?!キューバ危機の結果は?, どうして重要?:米ソ間でホットラインが設置されるようになり、首脳同士が電話で会談できるようになったから, 1898年の米西戦争で、キューバは独立を勝ち取りました。でも直ぐに、実質的にはアメリカの支配下に置かれることになります。, アメリカ生まれの娘は、ずっと現地校に通っています。数年前から、学校でアメリカの歴史を習うようになってきました。実は私、日本史専攻で世界史をやらなかったので、アメリカの歴史をよく知りません。これでは会話が出来ない!と、あれこれ[…], そうした中、軍事クーデタで独裁者として君臨していたのがフルヘンシオ・バティスタでした。アメリカはこの軍事政権を容認していました。, これに反発したのが、フィデル・カストロです。彼はチェ・ゲバラと共にバティスタ政権を倒しました。, 新しく首相となったカストロは、すぐにアメリカを訪問しました。キューバの砂糖産業を守るため、経済援助を申し入れるためです。, しかし当時のアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは、親米政権だったバティスタ政権を倒したカストロを信用しませんでした。そしてあろうことか、カストロ政権を倒すことを狙った作戦も展開しました。, 作戦は失敗しましたが、カストロはもちろん激怒しました。そして、アメリカがそういう態度ならソビエト連邦だ!と、ソビエト連邦に接近したのです。, お互いに核兵器を持ち、お互いにいざとなったら使うぞと脅しあっている犬猿の仲でした。, アメリカはトルコに核ミサイルを配備していて、すぐにでもソビエト連邦を攻撃できました。, でもソビエト連邦には、直接アメリカを狙えるミサイルを配置する場所がなかったのです。, そんな時、アメリカのすぐ横にあるキューバがやってきたのです。ソビエト連邦の最高指導者だったニキータ・フルシチョフは、どんなにかニンマリしたことでしょう!, おそらくカストロは初め、共産主義にはさほど興味はなかったはずです。最初にアイゼンハワー大統領が快く迎えていれば、アメリカといい関係を築くつもりでいたのでしょう。, アメリカとは1961年に国交断絶しました。そして同じ年に、キューバは社会主義国となりました。, アメリカはその後も、カストロ政権を倒すため、あの手この手の暗殺計画、攻撃を行いました。カストロは2016年に90歳で亡くなりましたが、なんと600回以上命を狙われたそうです!これはギネス記録だとか。, しかしこれだけ失敗するのはアメリカが無能なのか、キューバが有能なのか?!はたまたカストロが神に守られた人なのか??, そしてソビエト連邦は、そんなキューバをアメリカから守るという名目もあり。ミサイル基地を建設し、遂に核ミサイルをこっそりと輸送し始めたのでした。, ソビエト連邦のフルシチョフ首相は、キューバに核ミサイルを配備する計画を立てました。トルコのように、すぐにアメリカを攻撃できるようにするためです。, その核ミサイルを、空軍の偵察機が撮影した写真で見つけたアメリカは、そりゃもうビックリです。, 核兵器を一発でも使ったら、相手も使い、この世の終わりです。絶対に使いたくない、使われたくない。, フルシチョフ首相の要望は、アメリカがキューバへの侵攻を止めること。そしてトルコのミサイルを撤去することです。, しかしこの当時、首相同士が話せるホットラインはありませんでした。ケネディ大統領とフルシチョフ首相は、6時間もタイムラグのある書簡で対話を続けるしかありませんでした。, そんな時、キューバ上空を飛んでいたアメリカの偵察飛行機がソ連のミサイルで撃墜される事件が発生。これは開戦かと、一気に緊迫しました。, さらに今度はアメリカが、海上封鎖中のキューバ海域に向かうソ連の潜水艦を爆雷。一触即発の状態となりました。, フルシチョフ首相はモスクワ放送で、キューバーのミサイル撤去決定を発表しました。これは同時にアメリカのラジオでも放送されました。, アメリカの海軍・空軍参謀には、この放送を疑い、こちらから攻撃すべきだという声もありました。, しかしケネディ大統領も条件を受け入れ、キューバへの武力侵攻は今後しないことを約束し、1963年4月にはトルコのNATO軍ジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。, もちろんソ連も約束を守り、翌月にはミサイル基地とミサイルを解体し、ソ連へと持ち帰ったのです。, アメリカから攻められることがなくなり、キューバのカストロも大喜び!と思いきや、彼はこの結果に大激怒だったそうです。実はソ連と一緒にアメリカと戦う気満々で、核ミサイルを撃ってやれ!とまで言っていたのです。, なのに自分を蚊帳の外に、勝手に二国間だけで決めてしまったのだから、これは面白くないわけで。. Health systems, WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>1. 1898年のキューバをめぐるアメリカとスペインの帝国主義戦争。アメリカがキューバを実質的支配下におき、太平洋などでも領土を獲得し、帝国主義国家への転換を明 … Life expectancy and mortality , 2. それを知るには、キューバの歴史を少し知る必要があります。 1898年の米西戦争で、キューバは独立を勝ち取りました。 でも直ぐに、実質的にはアメリカの支配下に置かれることになります。 そうした中、軍事クーデタで独裁者として君臨していたのがフルヘンシオ・バティスタでした。 アメリカはこの軍事政権を容認していました。 これに反発したのが、フィデル・カストロです。 彼はチェ・ゲバラと共にバティスタ政権を倒し … キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置し、キューバ本島とその周辺の島嶼からなる社会主義共和制国家。首都はハバナ。, ラテンアメリカにある島国。ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島とジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコのユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国フロリダ州(フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。, フィリピンのルソン島ほどの面積を持つ島国で、地理的には北アメリカに含まれ、広義の中央アメリカにも含まれる。南北アメリカ大陸間、およびラテンアメリカとヨーロッパを結ぶ要路に位置している。アメリカ合衆国とは「アメリカ合衆国の裏庭」とも呼ばれるほど関わりが深かったが、キューバ革命により、南北アメリカ大陸で初めて反米・親ソ連の社会主義政権が1959年に成立。その後は「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。, 正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称Cuba(クーバ)。, 日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字は、玖瑪、玖馬、久場、古巴など。中華人民共和国においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。, 国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン[注釈 1] が由来であるとされている。, ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。, 1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。, スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。, そこへつけこむ形で、300年かけてキューバ開発は多国籍化した。ウェストファリア条約締結によりスペイン帝国は凋落、1680年のインディアス法令集成からは王室が富鉱を独占する規定がなくなり、5分の1税を払うだけで採掘が許された。1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。そしてマーチャント・バンクに開発されていく。, 19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。, また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。, その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。, 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。, 1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。, 1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。, 1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。, 「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。ユナイテッド・フルーツ、アメリカン・タバコ・カンパニー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークなどの多国籍企業が進出し、現地では鉄道会社も設立された。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。1920年代半ばには合衆国の投信マネーが電力系統へ流れてきて、ゼネラル・エレクトリック系の電力証券(Electric Bond and Share Company)とその子会社(American & Foreign Power Company Inc.)が全土の電力網を作り上げた。このころ砂糖市場は国際問題化した。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。, 不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。, 1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治[要出典]を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。[要出典]これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。そしてユーロダラー戦争が誘発された。, 1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。, メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。, 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。, バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。, これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業というあらゆる産業が対象となった。たとえば、精糖会社ではユナイテッド・フルーツが国有化されたほか、1960年7月に国有化された米系企業としては、Rothschild-Samuel-Suignan(たばこ会社)、ゼネラル・モーターズ・アクセプタンス(産業金融)、オクシデンタル生命、アメリカン・インターナショナル・グループ、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現・JPモルガン・チェース)[2] があげられる。, 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。, 1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。米ソの妥協によって核戦争は回避されたものの(キューバ危機)、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の機関化を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者であるシャドー・バンキング・システムとの対立が深まった。, 1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。, 1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。, 1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。, 冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。, 深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。なお、土地の私有化によって、ビルバオ・ビスカヤ・パナマが最初のモーゲージ貸付を行った[3]。, 2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。, アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた[注釈 2]。11月6日、アメリカ上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。, 国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた[4][5][6]。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。なお、アメリカは、表向きは経済制裁を継続していたビル・クリントン政権時代に、ハバナのアメリカ利益代表部の大改築を行っている。, 2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。, 2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。, 2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した[7]。なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている[8]。, アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。, その後、2017年に就任したドナルド・トランプ米大統領は、キューバに再び厳しい姿勢を示している。, キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵組織などもある。, 最高司令官は国家評議会議長が兼任。徴兵制度が存在し、17 - 45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力3万8,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値はすべて2007年のもの)。, 1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖、経済制裁が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、2020年現在もグアンタナモ米軍基地が存在する。, アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求めた。1962年10月にキューバミサイル危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある[13]。, 1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置も参照)。, しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダやローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した[14][15]。以後、, その後、米ドナルド・トランプ政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した[20]。, 1999年にベネズエラでウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビア、エクアドル、ニカラグアで左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。, キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。, ロシア連邦とはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機(1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。, 1990年代初めのソ連崩壊による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシア連邦の国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチがキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている[21]。, 日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である[22]。, 日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロが親日家であることもあり、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 Yahoo!

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